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教員紹介

所属機関   追手門学院経済学部経済学科
氏名      西村和志   
生年月日     昭和23年7月13日
職名      教授
最終出身大学院 神戸大学大学院 理論経済学・経済政策専攻
所属学会   日本経済学会
         日本統計学会
         日本金融学会
         日本ファイナンス学会
担当科目 入門経済学 ・基礎経済学・基礎演習・ 金融論 ・ 演習 I ・演習 II
       大学院金融論特論
研究室   研究棟 608・613号室

教育および研究活動の方針

         教育方針       学生は、毎年、全国からさまざまな教育を受け
       て、本学に入学されるので, その年の受講生の理解力を
                   見定めて、講義するように努めている。担当科目が
       経済学入門と金融論なので、金融論を受講するように
       なっても、現代経済学の基礎から応用まで、無理なく
       理解できるように、主張を選んでいる。
        ゼミでは、ゼミ生が本人の望む方向に、自由に伸びて、
       将来の展望を自分で切り開けるように、助力している。
       4年生では、卒論が自分でかけるように、その年の
       トピックスとなるテーマで、教員もゼミ生もともに共同
       研究している。
        就職指導については、私自身、オバードクターも、
       経験し、毎春、入学式前の閑散とした学食で、冷めた
       定食を食べたことが忘れられないので、早めに、
       自覚を持って、卒業式まであきらめず、真剣に取り組む
       よう助言している。             
   研究方針   経済主体がリスクを計量し、経済行動を決定する経済
        モデルで、解明されていない動学的問題について、基礎的な
        研究をしている。
          また、アジア経済が、ますます、相互依存的になる
        見通しがあるので、環境保全および安全保障のもとでの
        経済構造を協働できるか、その方法を研究している。
          アジアは、長きにわたり、欧米の植民地の犠牲になり
        民族自決の行動も多くの血を流して、独立した国が多く、
        農林漁業の伝統産業さえ、インフラを構築出来なかった
        歴史は、香港・マカオの返還で、終止符を打った。今後、
        アジアは、欧米と排他的に進むわけではないが、アジア
        各国は独自の文化を栄えさせ、侵略、征服されない、
        相互扶助の友好関係を築いていくことが、今世紀の目標
        ではないかと考える。

                    経済学ガイド 2006+2010

2011年の経済学ガイドに、2006年の「それから」を、高校生や入学生の進学や進路の選択にお役に立つように追加しました.

                    セルフ・ポートレート

 私は山口県防府市で生まれた.塩田のそばの大きな家の小さな離れで幼稚園にいくまですごした.家の周りは田で囲まれていた.祖父母は下関の家を空襲で焼かれ防府に来た.父は兵隊に行っていたのでこの地に戻ってきた.父は朝鮮銀行に勤めたのだが、徴兵された.戦後,朝鮮銀行はなくなった.失業していたところ,この地の銀行員と野球をしていて,父は下関商業の野球部出身だ,打たせなかった(本人曰く).その上役に目に留まったのが縁でその銀行に就職した.私には父の仕事はわからなかった.その当時の娯楽は野球と相撲とラジオだった.父の転勤で福岡市に引越しをした.そこで小学校に入学したと思うと下関に転勤した.小学校5年のとき小倉へ中学2年で宇部に行った.転勤するたびに友達と別れまた新しく友達を作らなければならないのがつらかった.高校1年の3学期また転勤なので,宇部の海辺に下宿することにした.それ以来,家族と離れ離れである.本当に一人で生きていくしかなかった.受験勉強の盛んな時代で,宇部高校では,学校に予備校があり,宇部興産の城下町のせいか理工系のクラスが3分の2あった.私は,学校の友達はあったが,下宿に帰ると部屋にこもっていた.2年の2学期,担任が剣道部の顧問だったので剣道部に入部した.夏は,海で遠泳を毎日していた.それ以外は,下宿に、明治・大正・昭和の文学全集があったのでほとんど読んだ.こんな調子で,自由に生きていたので,大学入試が近くなるとどんな方向に進めばよいのか,はっきりしなかった.ただ,自分の考えを生み出したいと思っていた.友達には,将来,定理を見つけるのだと,ホラを吹いていた.結局,理科系のクラスにいたので,大して野望もなく,大阪大学の醗酵工学を志望した.なぜ選んだのかというと,父は付き合い酒で家に帰ると相当の酒乱だった.父にやめてもらいたいので酒の研究をしようとたわいなく考えた.受験に失敗して初めて将来を考え,経済の道をとった.
京都に行ったらという親しい高校の先生の勧めで,京都に出た.予備校で紹介された下宿に,本学に就職する1981年までいた.この下宿は,立命館の学生がいた.人付き合いのいい人で,下宿には毎日,彼を訪ねてきた.立命館にはもうなくなっているかもしれないが,「近代経済学研究会」の部室同然だった.そこで,部員の学生に親切にしてもらい,どこを受験したらいいか相談した.当時,戦後の社会主義・共産主義の先生方が活躍されていた時代だった.私は,数学がようやく分かって予備校の成績もよく,数理経済学や計量経済学の本を見るとこうゆう道もあると元気が出てきた.ただし,戦前の社会主義者・共産主義者の弾圧を小説で読んでいたから,こういう主義を選択すると,一生,カン桶まで背負うと思っていた.そこで,近代経済学研究会の皆さんに勧められたのは神戸大学であった.
入学して,引越しをするのが当然であるが,阪急電車で四条大宮から阪急六甲まで学生定期は安く,学生の町でもあった京都は何かと暮らしやすかった.先輩もいるし,頑張れるだけと通うことにした.神戸大学では新入生は教養部で1年半過ごし,それぞれの学部に進級する仕組みだった.剣道部に入り,夏の合宿に行き,その後,東北一周旅行を友達とした.そのころ,リュックを背負う学生旅行が流行っていた.秋,山好きの友達と穂高に登ろうと計画していると,学園紛争が始まった.授業どころではなくなり,教養部はバリケード封鎖された.自主的に勉強会を開く友達もいた.私は,下宿で,結局,毎晩,戦後文学から,現代文学まで読み,面白くなくなって世界文学を読んだ.気に入った文学者はほとんどの著作を読むことにした。全集主義である.
立命館の学生と毎晩議論し,紛争学生も来るようになった.ある日,京都御所のほうからうなり声が聞こえてきた.立命館の広小路学舎で深夜明け方まで,記念会館を占拠する学生と民青との石投げ等の戦いがあった.先輩に「いったほうがいい」といって私も行った.占拠した全共闘の学生たちは「京大,同大から応援が来る!?」と叫んでいたが,もう終わっていた.救急車でけが人が運び出されると,先生を取り囲んで一般学生が大学側が石よけのベニヤを民青に渡したと非難していた.これが団交であった.学生運動は,安田講堂が落城し,全国の紛争は鎮静化に向かったが,神戸大学は「廃校になる」といわれるまで遅れた.
以降,ほとんど立命館の広小路学舎の学食で食べ,生協で生活用品を買い,学生生活を立命館大学,また時には,同志社大学の学生会館,丸善,古本屋で過ごした.アルバイトは,
3年生まで京都の学生援護会を通じて探した.いろいろな大学の学生と職場で一緒になり退屈はしなかった.
 大学時代は、高校時代と同じ状態になり,結局,自分で勉強するしかない.毎日,朝方まで本を読んで,いろんな学生と議論した.関心事は,体制のことで,代々木派と全共闘のマルクス主義,新保守主義,戦前の極右,北一輝や折口信夫を読んだ.政治と哲学がからまりあったマルクス主義はどちらの派にせよわからなかった.紛争後,神戸大学は沈滞ムードがあった.学問的な進歩は,あの運動から生まれなった.私は,シュンペーター,ベーム バヴェルク,フィシャー,ヒックスに関心をもつようになり,労働運動では組合主義のストレイチ―に共感していた.計量経済学や数理統計学のほうに,興味があり,演習は経済統計学を専攻しようとしたが残念なことに担当教官は退官のため募集されなかった.そこで,統計学原理の先生がおられたが,応募するのが1人ぐらいなので,理論経済学を専攻した.
演習では,ケインズの『雇用・利子および貨幣の一般理論』を原書で読み,発表するようになっていた.一人勉強がそのころ定着し,ゼミはほとんどサボった.しかし,統計学は,Mood GraybillIntroduction to the theory of statisticsを独学で読み,練習問題を解いていた.多分,あのままであれば会社に就職していて別の道があっただろう.
 しかし,私の運命は,3年生の夏,変わった.山陰道を自転車で計画を立て,2軒の旅館を掛け持ちし働いた.自転車も買った.しかし,働きすぎて疲れそのまま帰省した.父がひどくがっかりしていた.残念だった.しかし,帰省から京都へ帰る途中,広島駅で,原爆記念館をみたという3人の外国人にあったところで人生が変わってしまった.大阪万国博覧会のあった年である.翌年,そのうちの一人に会いに行くと約束したので,また,朝夜兼行で,旅館のアルバイトをし,資金を貯めた.父にも援助してもらって,その当時,旅費の安かったソ連経由でヨーロッパにいき,再会を果した.オーストリアとイタリアに行った.途中,共産主義の宗主国とその同盟国の実情を知ることになった.帰り,モスクワのホテルの部屋で,同行の日本人学生たちとこの国の体制批判を大声でしゃべりあった.各部屋は盗聴されていると私が言ったと思う.帰りのシベリア鉄道の寝台車は,細い3段ベットで安全ベルトなしの一番上だった.この旅行で一番の収穫は,グラーツとウィーンでシュンペーター,ベーム バヴェルクやカール メンガーの著作を生んだ人々と町を知ることができた.
 帰国後,私は初めから研究を目指したわけでもないし,団塊の世代は勉強もせずほとんど学界に目を向けることはなく,先生を団交して大学から去っていった.また,一方,学界では米国留学が流行した時代である.私は行きがかり上,ヨーロッパの東西対決を見てくると,米国に行くことはできない.つまり,当時,地続きのヨーロッパでは実戦しているのだ.そういう中で日本の学界を目指すのは,実際賢明ではない.関西の蜷川京都府政,黒田大阪府政などで実現したマルクス主義主導の政治・経済状況中では,私の生きる道は狭い.しかし,指導教授や統計学原理の先生方の励ましのおかげで,私は,経済は資本主義,政治は民主主義という考えをもち,大学院時代を生き残った.本学に就職するまで,過酷な研究の日々が続いた.それからも.
 転機は197811月にやってきた.大学院入学以来,統計学・計量経済学・数理経済学の研究会でご指導いただき,単位修得退学後に籍を置かせていただいた恩師の後尾哲也教授が亡くなられた.それまで,就活を全国の大学に書類を出していたが,結果は書類選考で落ちていた.その後を引き継がれた豊田助教授に籍が移った.これは大変なことになったので,すでに,大学院生の季刊誌六甲台論集に2本書いていたが,論文を書くことに集中した.そして,“Expected Time Preference,”六甲台論集,第26巻第4号,1980年を発表した.この後,豊田助教授のお世話で,1980年の春,本学の採用面接を受けることができた.しかし,あと1年あるので,この論文を拡張し,アメリカのペンシルバニア大学のPCFishburn教授に見てもらうため研究し,Journal of Economic Theoryに“Multivariate von Neumann-Morgenstern Utility and its Additive Representation”を寄稿した.12月採用通知が来た.これで,長年の研究が評価され,就職後,これをもとに経済理論を発展させるつもりであった.
 19813月,それまで吸っていた煙草をやめ,下宿の本をダンボールにつめて,部屋を掃除し,いつでも引越しできるように準備した.そして,4月本学に就任し,他の2名の新任の同僚とともに大学教員としての生活が始まった.しかし,1週間すると,阪急電車で大学との往復する間,「追手門学院大学で,今度は,学生に対して,教育するようになるが,32歳になって,研究は確かにしてきた.しかし,社会に対して,何かひとつでも貢献することはなかった」と思うと涙が出てきた. 3月末までにあれやこれやで体力を消耗し,新しい環境と職務に適合できなかったのだ.大学を休み,その年度は,大学に対して,非常にご迷惑をかけてしまった.7月,下宿を引越し,京都西陣に移り,秋から復帰した.例のアメリカに送った論文のことは親さえ黙っていたが,本岡学部長に京都へ帰る途中,経済学にもプライオリティがあるのかと聞かれた.ばれたかと,内省している間に,心穏やかになり,自分には社会に何かをしなければならない使命があると感じた.ただ漠然と,世界の東西・南北の対立を解消しその中で貧困に苦しむ人々の助けになることを自分の力で行動して実行することだと思った.
 その使命に気づくと,当然のごとく,学生を教育することに専念でき,1982年度から,経済原論,金融論,英語購読と演習Iを指導した.そして,夏,目標を実現するため,横浜からナホトカまでいき,シベリア鉄道で,モスクワに行った.その後,バクーに飛んで,バクーからグルジアまで汽車で行った.その目的はスターリンが生まれた地域と石油資源を見たかった.初めてのイスラム世界だった.グルジュアからキエフ,レニングラードに飛び,列車でストックホルムに出て,西ドイツ,1976年ケルンの語学留学でお世話になった一家と再会し,西ヨーロッパの北欧とイベリア半島をのぞく各国を見て回った.年末に,アメリカのレフェリーから修正を指摘されて,論文は書き直して送った.
 1983年の夏は,イルクーツクまで飛んで,今度は,中央アジアのタシケントとアルマータに行き,オデッサから,汽車で,ブルガリア,ルーマニア,ユーゴスラビア,ハンガリー,チェコスロバキアの首都を回り,東ドイツは行かなかった.プラハからウィーンに着き,ひどく疲れた.マドリードに飛び,語学研修を4週間し,スペイン語がすごく上達した.土日を利用しリスボンに行った.研修が終わり,イギリスに行かないと今後まずいかなと思い,ロンドンからアラスカを経由して帰国した.その間,大韓民国の航空機がサハリン上空でソ連の戦闘機に撃墜された。私は,ソビエト連邦と東西ヨーロッパを見聞したが,この2年間の活動により,日本に帰ると,必ずマークされ,苦労すると思った.就職以来,アメリカの論文が出版されないと,次が書けないし,大学に迷惑をかけているので,編集者のKarl Shell博士に手紙を出し取下げて,本学の欧文紀要に載せた. その後,応用した論文を書き,それらの論文を西ドイツのビーレフェルト大学のJRosenmueller教授に送り,1986年の研修を願い出ると受け入れられた.
 帰国後,19895月結婚し,7月,大連から鉄道で北京に行き,中国民主化弾圧後の天安門広場を案内された.北京から列車に乗り,ウランバトール経由でイルクーツクに行き,シベリア鉄道でモスクワ,レニングラードに到着した.ユーラシア大陸を横断し,黄海からバルト海に到達した.そして,ワルシャワ経由で東ドイツの東ベルリンに着いた.ベルリンのブランデンブルク門に行ったが,いつになったら自由に行き来できるのかと思った.私はバッハが好きだったので,ライプチヒでバッハの教会に行った.ミュンヘンに到着し,スイスに滞在し,マニラを訪ねて帰国した.
 帰国後,なんと,ルーマニアの崩壊,ベルリンの壁の崩壊と雪崩を打って,東ヨーロッパは共産党独裁から民主化された.ソビエト連邦は湾岸戦争後,解消された.そして,新しいヨーロッパが始まった.その後,私は南北問題に専念することになる.




入門書

I.@ 鈴木淑夫『金融』日経文庫

  A 今野 浩『金融工学の挑戦』中公新書

  B 仁科一彦他編『金融工学』大阪大学出版会

 専門書

U.@ JA.シュムペーター『資本主義・社会主義・民主主義』東洋経済新報社.

A JR.ヒックス『価値と資本』岩波現代叢書

B JM.ケインズ『雇用・利子および貨幣の一般理論』東洋経済新報社

C D.パティンキン『貨幣・利子,および価格』勁草書房
   D      西村和志『金融論』晃洋書房,2005年.

 一般書・教養書

V.@ 日本文学全集

  A 世界文学全集

  B 哲学選集

           経済学ガイド「経済学部白書」1994

次のエッセイは、本学経済学ガイド「経済学部白書」1994に掲載し、1999版まで手を加えずにしているものです。私の「せるふ・ぽーとれーと」と 西村(和)ゼミの指導方針をかねて、当初(1993年8月)書きました。今年(1999年)は、NHKの大河ドラマ「元禄繚乱」で赤穂浪士のことが再演されています。私は、関心をもたれそうもないエッセイの役目が終わったと思い、来年は改定します。ただし、エッセイの結論は、現在、私の研究課題になっています。また、せるふ・ぽーとれーとの内容が少ないので次に補っておきます。

 私が生まれたところは、山口県防府市の海辺で物心つく頃まだ浜には塩田があり、多くの人々が働いていました。現在、防府市のそのあたりに、塩田公園があります。みな等しく貧しい時代でしたが、私の親類がハワイに移住していまして、クリスマスには、お菓子を送ってきていたような気がします。戦後の混乱期に、アメリカの親類もよく援助してくれたものだと感謝しています。最近、知ったことですが、防府は、オーストラリア軍が戦後、占領軍として入り、オーストラリアへカンタス航空が飛んでいたそうです。こんな田舎まで、GHQは来なかっただろうと思っていましたが。その後は、父の転勤で、家族は山口県と福岡県をいったりきたりしました。父は、「チャンバラ劇」が特に好きで、いわゆる「忠臣蔵」がその頂点でした。その理由は、すごく単純で、私の家の紋が「鷹の羽のぶっちがい」なので、親近感があるというだけでした。1993年、もう父も70歳を超え、親孝行のつもりで、家族で、赤穂市内を見物し、赤穂御崎温泉に泊りました。父は楽しそうでした。その頃書いたエッセイです。

せるふ・ぽーとれーと

 私は、山口県の田舎の高校から進学のため京都に住み、神戸大学大学院を出て本学に就職しました。
 関西に住んで20数年、私の生活の大半は、京阪神の往復でした。私の視点は、関西の政治経済の広域的問題に自然にいきました。
 ところが、本学に就職した1981年、私の重要な問題は、「大学教育とは何か」でした。私の研究は、統計技術を使った経済分析でしたから、意識の格差は深刻でした。幸い、諸先生方の様々なご教示から、本学での私なりの教育内容と指導方針を固めて教え出したのは、1983年の秋です。今、私の担当科目、経済原論Iまたは外書講読Iと金融論 です(1。毎年、私は各科目の授業の場で、学生諸君に、私の方法に基づく私のテーマを語っています。
 私の主張は何かと言いますと、戦後、高度成長後の関西政治経済の特質と将来の展望だった気がします。このことを語るために京阪神の往復でえた地勢的知識はありましたが、私は、世界史志向のため、日本史の変遷を断片的に知っているだけでした。関西は、日本のどの地域よりも歴史的厚みがありますから、私の主張を実証的に検証するため、就職後、暇を見ては、数多くの近畿の拠点地や、ほとんどの都道府県をまわりました。それでは、私の方法による私のテーマとは何か、例をとって説明してみます。
 1993年に初めて、兵庫県赤穂市にいきました。赤穂城の周辺はきれいに整備され、大石神社、歴史博物館がありました。市街は急峻でやせた山々に囲まれ、平野はせまく、前面は海で、浜も広いとは言えません。塩田跡にレジャーランドがありました。ご存知のように、1701年(元禄14年)3月浅野赤穂藩は断絶しました。浅野家3代により、城下町が整備され、藩主導の産業政策により、塩の干満を利用する入浜式塩田が開発されました。この間、幕府の朱子学に反した古学の祖山鹿素行はこの地に流され、藩士を教えました。浅野家断絶後、入浜式塩田技術は、外様を中心に全国の適地に伝播しました。 赤穂の塩は、技術の先駆性と大阪との交通の優位性のため藩財政を支えました。他方、武士の政策指針たる古学は他藩で教えられ、やがて明治維新の政策形成に影響を与えました。
 265年間の幕藩体制は、国民に、封建制下の人間関係、自給自足経済の強制、鎖国という三重苦を強いました。 幕府は、財政破綻、藩間経済格差の中で国防を担えず、ペリー来航後急速に崩壊しました。維新後、上意下達政治システムのなか、憲法的人間関係の獲得、欧州政治経済制度の導入、先進技術移植による産業育成を進め、ついに侵略戦争を経て、国民はあの三重苦から自由になりました。そして、戦後、赤穂の製塩業は、流下式からイオン交換樹脂への技術転換の中で衰退しました (2
 それでは、私の主張を述べることにします。明治からの塩専売制がなければ、赤穂の地元資本が蓄積され、近代工業化に対処した新産業が開花したかもしれません。ともあれ、赤穂の人々は、防潮堤の土木力、潮の干満という自然の理を利用し、労働力と柴・薪により製塩し、運輸・金融システムで流通させる産業サイクルを運営しました(3 。近代工業製品が依然、産業廃棄物であるのと比較すると、このことに未来へのシグナルが見えないでしょうか。
 今、経済システムは、製塩業サイクルに見られる、恒久的に生成する資源から、自然に中立的技術革新によって、地域に真の長期安定生活基盤を発展させるものが望まれています。しかし、もう国民が、憲法・憲章で謳ってある人間関係を自律させるでしょうから、国民の意志によって作られた政治システムによらなければ、どんな経済システムも構築・運営できないでしょう。私は、今後も、憲法・憲章人に望ましい経済システムとそれを支える政治システムを、地域の場で考えたいと思います。

 脚注 (1 2000年度の担当科目は、経済原論 I (1年生対象)、外書講読(2年生以上対象)、金融論、演習 I 、演習 II、大学院金融論特論です。
(2 赤穂市史編さん専門委員編『赤穂市史第二巻』 昭和58年および広山尭道編『赤穂塩業史』 昭和43年を参照しました。
(3 作道洋太郎


        演習および講義を受講する学生のために

 私は、論文以外に書いたものは、次のエッセイのみです。しかし正直に書いています。私の性格や教育観、経済学への取り組み方を知るのに参考になるかと思います。

1.問題意識『ぶっくわぁむ 』 追手門学院大学附属図書館                                                 No34,1991.12.10

2.『くみあいらいふ』
追手門学院大学教職員組合発行 3 1985416
3.『ぶっくわぁむ 』 追手門学院大学附属図書館No21,1987.6.10
4.『くみあいらいふ』追手門学院大学教職員組合発行
12号 1987年7月13  
5.
『くみあいらいふ』
同上 第14号1988215  


1. 私が講義する金融論について、どんな問題意識で述べているか、本学附属図書館報「ぶっくわぁむ」
No.34 1991.12.10に掲載したエッセイを紹介します。
核兵器廃絶という地球上の全人類の生存に関わる最重要問題さえ50数年で生産中止および部分廃棄が核保有国でやっと実施される程度です。それに似て、国の主導よって、日本金融システムを正常化するのに、責任者の負の価値を評価するのために、税金X 時間=国債累積額ですれば、正常化費用が恐ろしく国民にかかっています。この費用{年平均対策費?兆円 X 正常化必要累積時間(10年)}の返済に、10年以上にかかることは明白でしょう。みんなに善いことは、なかなか実現しないから善いことなのでしょうか、ともあれ、つらい、しんどい時代は長く続きます。

  

2つのバブル

                                                        西村和志 

 日本の株式市場は、1990年の春と秋に株価が大暴落しました。それが日本経済にどのような影響を与えるのか、極端に言うと金融パニックが起きるのではないかと不安でした。今年の春、私は学生諸君とKindleberger,C. P. の『The International Economic Order』(1988)を読むことにしました。世界的な課題としては、国際経済秩序の創造の方が主流の思潮であろうかと思いますが、彼の第1章、“Is There Going to Be a Depression"が、私の不安を解消するための一つの方向を示してくれました。この章は、1987年、10月19日、ニューヨーク株式市場でおきた、ブラックマンデー後、1988年1月に出された彼の講義録ですが、タイトルの通り、この暴落が世界経済やアメリカ経済の不況へ導くものか、1929年の大暴落と大不況と対照することによって、経済の進路を推論しています。
 キンドルバーガーの推論は、他の金融資産、商品市場に与える影響の考察を中心としています。とくに金融システム影響はまぬがれえず、証券会社の不景気や銀行の破綻、消費者ローンの返済不能な消費者が増加するといっています。しかし、為替市場におけるドルの自由落下や実物経済における不況については楽観的でした。彼の推論を日本の場合に適用して考えてみます。
 今年になって、証券不祥事に象徴されるように、大手証券会社は大変なしっぺがえしを受けています。銀行は、地価バブルの凍結と株価バブルの破裂の両者による傷に病んでいます。消費者ローンによる自己破産、マンション、建売住宅の売れ行き不振もあります。しかし、為替市場は安定しています。暴落の金融システムへの影響は、証券会社と銀行の不祥事によってはっきり証明されました。ところが、問題を複雑にしそうなのは、金融制度調査会制度部門問題専門委員会報告と証券取引審議会基本問題研究会報告書が相ついで公表されたことです。これらの報告の方向で、金融システムが改革されると、株式市場の不安定な状態はどうなるのかという問題があります。ニューヨーク市場の暴落の場合は、金融システムは自由化された後っだたのです。それゆえ、市場の規制されない調整力を期待できるのですが、日本の場合は、これから金融市場を自由化するのですから、行く手に難題を抱えたまま、バブル破裂の負の効果を処理しなければならないのです。
 なぜ、このような困難な道を日本経済はかかえるようになったのか、その原因を考えたいと思います。1987年ブラックマンデー後の東京株式市場は、キンドルバーガーの指摘通り、通貨当局の市場管理が功を奏して、市場はダメージを受けず、1990年の2段階暴落まで、右肩上がりを相場が形成されました。このことで、世界の金融市場の自由化、統合化とグローバル化が進展する中で、東京市場の孤立的相場形成の生成と挫折を金融史に残してしまいました。私は、この原因の多くはこの間に取られた経済政策にあると思います。その発端は、1985年9月のプラザ合意でしょう。この合意後、為替レートは急激な円高となり、安定したレートが定まりませんでした。1986年10月31日第三次中曽根内閣の宮沢蔵相は、べーカー米財務長官との協議の上、内需拡大と為替相場の安定について合意し、翌日、11月1日に公定歩合は3%に引き下げられました。この金融政策によっても円高は続き、円高不況になってしまいました。1987年2月には公共事業を中心とした補正予算が組まれました。この流れの中で世界の経済一流を自認する民間は、どう反応したでしょうか。
 中曽根政権の時代は、東京一極集中化が進み、その弊害を是正することが議論されるまでになりました。1987年6月には、第四次全国総合開発計画が作成され、多極分散型の国土作りが提唱されました。その四全総の中での東京圏の将来像は、「国際金融、国際情報の世界的な交流の場」の形成でした。金融緩和の中で、この計画を先取るように、民間活力により東京中心部再開発ラッシュが始まり、1987年2月23日には公定歩合が2.5%に引き下げらるに至り、さらにはずみがついたと思われます。あのブラックマンデーの翌日、政権は竹下氏に譲られ宮沢蔵相も留任しました。竹下政権は、まさに多極分散型の国土形成が政策の柱ですから、東京資本はこの経済政策に便乗し、超低金利の資金を地上げによって手にして、全国といわず世界まで東京風第三次産業事業を展開しました。こうなると、マクロ経済学でいう金融政策と財政政策両者を用いた景気浮揚策が取られているのですから、インフレーションが進行するはずです。しかし、円高と原油安のメリットを受けて、物価は確かに金融引締をする必要がないほどでした。
 超低金利時代は、1989年5月31日まで続き、この間生じたのは地価バブルと株価バブルでした。地価バブル対策として総量規制と1989年12月25日の公定歩合4.25%への引き上げに金融政策が変更され、翌年2月、株価バブルの方が早く破裂してしまいました。土地の平均収益率を7%と見込んでも10年分はありそうな地価バブルはまだはじけていません。
 さて、キンドルバーガーの講義録から得た推論と今回の日本の経験から考えますと、金融システムにも2つのバブルを生じる原因があったと思います。こういう状況の中で、1990年の日米金融協議による日本の金融市場の自由化スケジュールの実行は、金融システムにおける取引の公正を監視する機構までも要求するでしょう。
 東京圏の目標である国際金融の世界交流の場としての東京国際金融市場では、特に証券市場の透明な取引慣行が要請されるでしょう。銀行は地価バブルをかかえながら、預金金利自由化をむかえると銀行業の自然淘汰が始まります。結論として、金融システムへのバブル破裂の影響は継続中なのです。

3.『くみあいらいふ』 追手門学院教職員組合発行 3 1985416 pp.16−17.

 

研究室訪問          経済学の根っこは福祉で

経済学部

西村和志

ききて

経済学部 玉置光司さん (現在 愛知大学 教授)

 今日は、玉置先生にお願いして、経済学部の西村和志先生の研究室を訪問して頂き、いろいろお話して頂くことにしました。記録を三橋が担当します。

生身の経済学

学生に理論がかったことばかり話しても理解できないので生身の
     経済学を やろうと…。

玉置

今、西村先生は自炊しておられ、いろいろな料理を作るのも知識欲の一環だといわれています。たとえばそれぞれの野菜のもち味をいかに引き出すかということも教育者として勉強になるとか……。

西村

それはあります。学生は何を考えているか解らない。話す機会を作り、じっくり観察する。

玉置

そのためには、コンパや旅行にいくことが手取り早い。

西村

お野菜にも濃い色、薄い色の野菜があり、それぞれに合った味付けをしなければならないですね。

玉置

彼は今マンションに住んでいます。彼のマンションには、いろいろ変わった人が住んでいるようですが、彼は「どこにいても人間関係というのはある。」といって住んでいます。

西村

経済学をやる者はいろんな人がいるところに住んだ方がよいという先輩がいました。学生に理論がかったことばかり話しても理解できないので生身の経済学をやろうと、すると、日常生活の経験の豊富さが学生に話していても理解しやすいのではないかと……。

旅行

アメリカのことはもういいと、ヨーロッパに対して新鮮なものを感じる
  らしい……。

玉置

旅行をよくするというのもそういうことからで、ヨーロッパは数回、東南アジアも去年行き、台湾、韓国にもうすぐ行くことになっていて、アフリカは今夏の予定になっているそうです。

三橋

どういう国がお好きですか。

西村

ドイツ系というか……。どの国も特色があるから……。気候が日本に似ているところがいいです。

玉置

我々が子供の頃、洋画番組はほとんどアメリカもので、例えば、コンバット、サンセット77、FBI、逃亡者とかで、日本人はアメリカ一辺倒みたいなところがあったと思います。彼はアメリカのことはもういいと、ヨーロッパに対して新鮮なものを感じるらしい。 

ドケチ問答

金を溜めるのは簡単やと思う。いいものを食わず、いいものを着ず
    に……。

西村

ヨーロッパにはもう数回行っている。ただし夏しか行っていないのですが、冬は寒いそうで……。丁度今浅倉さんが行っている。彼は数学をやっているせいか、合理主義者で、生活も非常に質素です。相当お金も溜めたようで……。これは(玉置氏を指し)ケチですわ。

玉置

西村に言われちゃ世話ないや。でも金を溜めるのは簡単やと思う。いいものを食わず、いいものを着ずに、ちまちまとした生活をしていれば。こんなこと言ったらいかにも小銭をためこんでいるような印象を与えるけど……。

西村

まず車をかうという気がしないでしょ!その上、この服一式も親元からで、この散発は阪大の生協なんです。

玉置

ちがう。この散髪は近所に住んでいる前阪神タイガース・オーナーの小津さんと同じところで、二千八百円するのだ。服は親元が衣料品店なもんで……。彼は高級マンションに住んでいるんです。僕は学生時代最初三畳から始まり、四・五畳、卒業する頃は六畳でしたが……。

西村

ぼくなんかも四・五畳で、十何年も京都に住んでいたんです。他の土地に移りたくなくて……。近所の方と別れるのがつらくて……。散髪やさんとかなじみができて……。

わが家の冷蔵庫

スーパーが住居の下にあって、冷蔵庫代わりに使っています。 

玉置

人恋しい方じゃないですか?

西村

そうでないとまったく孤独でしょう。家族がないから……。最近は、甥をよくつれて来て、自分が作った食事を食べさせたりしています。スーパーが住居の下にあって、冷蔵庫代わりに使っています。必要な分だけ買います。何が安いかというと野菜が安いです。経済学をやっているとそうなるのです。以前は家計簿をつけていて、要領を覚えていましたから、最近はお金がかからなくてすむようになりました。

三橋

料理の本も参考になさるのですか。

西村

そうしていますが、旅行好きのため、地方へ行ってその土地の名物のものを食べるとか、大衆食堂で定食やその店の自慢料理を食べるのです。関心があるのは庶民的な料理です。煮しめなど手のかかる料理も作ります。今は関西の伝統料理を研究中です。出刃包丁で鯖をおろすのをやってみたいと思います。船場汁を作りたいのです。将来、老人になってもおいしいと思うものを研究しておかないと……。経済やっていると何か合理性を追求しますね。 

弘法大師

弘法大師に心ひかれるようなところがあって、京都からは離れられま
    せん

玉置

彼は宗教に関心があるようです。世界三大宗教仏教、キリスト教、イスラム教ですか……。彼は日本の思想家の中では空海を一番買っているそうです。

西村

空海と、最近は同一時代の最澄にも関心があります。大乗仏教を庶民レベルまで広めたということにおいて二人の果たした役割は大きいと思います。まだ聞きかじり風だけど。ぼくにとって普段の精神修業という意味では、実践的な仏教書である、「摩詞止観」や「天台小止観」に教えられることが多いです。これらは最澄たち以前の天台大師が説かれたことですが、個人修業により悟りへの道を段階的に教えらえているのです。でも、最澄、空海の時代になると大衆を救済するための仏教へ改革されるのです。空海は、山の中にお寺を沢山作っている。四国に行っても山の中に道場があります。この近辺では高野山があります。

玉置

彼は高野山にしょちゅう行っている。室生寺とか一ヶ月に一回位いっているでしょう。

西村

今年の正月、伊勢に行ったら、伊勢スカイラインの上にも真言宗の寺がありました。昨日は大覚寺へ行きました。ここへは初めて行ったのですが、やはり真言宗でした。乙訓寺もよいところですよ。ぼたんで有名ですが……。京都周辺は真言宗が多く、弘法大師に心ひかれるところがあって、京都からは離れられません。

玉置

欲を打ち消すことでしょう。出てくる欲を次々とモグラたたきみたいに……。ライフワークとしては宗教と経済学の統合ですか? 

経済学は何のための

経済学は、いかに生きるかということと結びついているよう
         です。 

西村

もともと、宗教の考え方が経済学の根本にあるのです。

玉置

彼にいわせると、経済学はキリスト教を基礎にもつヨーロッパからのもので、日本にはまだ根付いていないか、または、アジア的経済学があるのではないかと……。

西村

経済学は金儲けをいかにするかとか、個人がいかに大金持になるかを研究していくものではないわけで、何のために経済を勉強でして行くかといえば、福祉ですね。結局、経済全体が崩壊しては困るから、不都合を取り除くにはどうしたらよいかを考えるわけです。

玉置

経済学は、いかに生きるかということと結びついているようです。経済学者はあまりそういうことを言わないが……。経済学は根が深いというか……。

西村

いや、経済学はそこから始まったのでして、専制政治の中で、革命的考えである自由、平等を唱えて、実現させていった力は、経済力であり、現代の民主社会では、自由や平等を守るためにあるのです。だから、民主政治の中では、平等を守るために税金を徴収するのです。深いところでは、社会改革みたいなところがあるわけで、最初のとっかかりとして宗教のような考え方がないと、まずそこからということで……。現在は殺伐としていますから、お互いに助け合うためとか、何か皆のためになるにはどういうことを最終目標にしないと……。ぼくは若いから最終目標とは何かと、昔からの思想をたどりながら考えています。

 追記 1.玉置先生は、このころ、私がこういうこと関心をよせていたので、イスラム教の聖典コーランの日本語版を手に入れてくださいました。それが縁で、ラマダンを私の暦で実行してみました。学務は、こなせていますが、いろいろ毎年反省することがあります。一度、イスラム暦と重なるとき、サウジアラビア、イランを訪問したいと思っています。
 2.料理は、結局、完全精進料理を3食4週間頂くということを続けています。これは仏教を体験するためです。後に、インド、グジャラートで菜食、禁酒の生活があると知りました。
 3.対談でのアフリカ行きは、次の年の西ドイツ留学へのたびの途中、エジプトのカイロ、ルクソール、スエズ運河で実現しました。1.と2.を実行しつつ山歩きをして、のまず食わずにたえられるようになって、1985年の冬休み、インドの仏蹟を訪ね、カルカッタ、ガヤ、ベナレス、ニューデリー、アグラを回り、ようやく見えてきました。この年の夏休み(1985)、アメリカには、シアトルによるつもりでビザも取りましたが、カナダのバンクバーで1週間以上、自炊していました。この時、カナダのトロントで有名なプラザ合意がなされたのです。したがって、アメリカ合衆国は、まだいっていないのです。もう、いくことはないだろうと思います。
 4.このころから、たばこをやめました。1982年夏、横浜から、シベリア鉄道で、ヨーロッパにいきましたが、その道中は、鉄道専門家の本にのっていて、私はキセルでたばこを吸う人というらしい。後にゼミ生が教えてくれました。本学に就職する1981年3月、教師になるし、たばこを吸うのは止めようと禁煙しました。それまで、日に2箱はいってました。1997年に亡くなった父にそのことを話すと、「そんなバカなことは止めろ。」と言いました。それで又吸い始めました。しかし、1983年秋から、対談にある宗教の研究に入ると、やはり頭がにごると思いやめました。時々、禁煙を破って、これまでの記録がパーになり、悔やむ夢を見ます。
 ゼミや会議は、その頃から禁煙になったと思います。世間では、禁煙に苦労されている方々が、おられると聞きます。父も量と場所を決めて最後まで吸いました。
                    2000年10月23日記す。

3.『ぶっくわぁむ 』 追手門学院大学附属図書館報 No21 1987.6.10

         与市兵衛はおかるをなぜ売ったか?

 私の青春は、京都のど真ん中で十数年通り過ぎ、そのくせ日本史を意識したことはなかった。ところが追大に就職して、いわゆる平安京千百数十年を日々考え暮らした。やがて、沖縄から北海道までその歴史的波及効果を辿り、様々な機会を利用した旅から帰京するとその反芻を京都周辺で想った。熱心さの余り長岡京へ引越した。つまりこの地の歴史的重層性を求めて思いつくテーマは、自宅そばの古墳にちなむ豪族のこと、また長岡京の租庸調の調倉庫跡もそばなので長岡京廃都、空海の乙訓寺、菅原道真の天神と石清水、浄土教団道場、南北朝の合戦、細川ガラシャ、山崎の合戦、戊辰戦争など。これらのまさに日本史の長期時代へのターニング・ポイントに関連した書物をひもときながら、見晴らしのよい山に登り想いめぐらすのが楽しかった。
 その白昼夢から醒めると、現代日本の東西文化の大動脈たる新幹線、東海道本線、名神、国道、空路が束のように交錯し、一方廃れた水運の木津川・宇治川・桂川の合流から淀川へ大阪平野に拡散する日本の諸活動があった。近頃、この地が歴史メーカーでなく雌伏していると思い至った。
 私は気取った客観的歴史重層性より近世の名残りある旧街道へと主観的歴史重層性に魅せられた。その入り口の角に交通事故で子を失った母親のもう1年を超す花を欠かさぬ祈りがあった。そのせいか、先の細い道がなんとなくもの寂しげで、今春はじめて通ると、その不気味さの途中に仮名手本忠臣蔵の与市兵衛惨殺の供養塔を見つけた。私はその由来記を一瞥、おかる・勘平の名が即、目に浮き、先の事故死のせつない怨念に直列したとたん寒気がしてつい方違えをして帰った。実は、与市兵衛がおかるを祇園へ売った帰り辻斬りに会ったらしい。今、大石の上洛と絡め、その塔への重なった祈りを思い遣っている。

4.『くみあいらいふ』追手門学院大学教職員組合発行 第12号 1987年7月13 p.4 

              老ひの旅

 人は知らず年を取りますが、大学に勤めていますと、毎年卒業生と新入生が入れかり、ついそれを忘れます。青春が大学にあるからでしょう。その中で働くものはそうもいかず、私も人並に年を取りました。
 そこで見えてくるのは、死ですが、それに至る老いの旅ををどう歩むか、日本の「人口学的高齢社会」の行末の過程に私の旅もあると思います。個人的には、「実験的に」老後の生活環境、日常生活(例えば精進料理)を体験研究していますが、これを続けると人が優しくなる気もしますし、花鳥風月、生き物への慈しみがわきます。今、貝原益軒の『養生訓』、『和俗童子訓』(女大学)を読んでいます。戦前まで庶民にまであった封建文化崩れと戦後のアメリカ大衆文化の浸透は、日本の高齢化社会をどう形作るか、この夏、前者の名残りと東京ブンカの関係を九州まで確める旅に出るつもりです。

 

5.『くみあいらいふ』追手門学院大学教職員組合発行

第14号 1988215 . 

               出島

 夏、九州へ旅立つはずでした。貝原益軒の養生訓が案内人でした。島原の乱に出征した父をもつ彼の思想的軌跡が、九州における、キリスト教の影響を内在化した過程かもしれず、再び、維新後の教育論としてもち上げられたことを想い合せると興味がありました。それで、五島列島の宇久島に渡るつもりでしたが、私の郷里山口も相当に封建的であり、ついその方が山々、海辺を自転車で回るうち痛切に感じられ、行きそびれてしまいました。
 時に、台風が通過し、農作物や家屋に風害、塩害のダメージを残していきました。しかも、台風の目は、五島列島を通りました。
 今、大分の子守り歌を時に聞き、九州出身の歌手たちののびやかな歌いぶりに、島原の乱後のキリスト教的愛もしくは讃美歌のなにかが残っているのではないかと。博多、長崎に泊まって、おおみそかは、郷里でしょう。



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